長い旅

第一部 はじまりの場所

「食道園」は昭和二十一年、父が単身で大阪・千日前に土地を借り「平壌冷麺と焼き肉の店」として開いた店である。

そして二年後の昭和二十三年、家族を大阪に呼び寄せたあたりから焼肉店の元祖「食道園」としての本格的な歩みがはじまることになる。

それまでの焼肉店というのは、ガード下などで直接七輪を置いての営業というのが一般的であった。
しかし、父がはじめた店にはベニヤ板だが壁もあり、入り口には扉も設置。
七輪はテーブルの上に乗せ、もちろん椅子も置いている。
現在、どこの焼肉店でも見ることのできる様式だ。今振り返るとそういう風にきちんとした食事ができるスタイルというのは、当時としては画期的であった。 「食道園」が誕生した頃、私は小学二年生。それでも当時のことは今でもよく覚えている。 父が料理を作り、母が運ぶ。経理は母の担当だった。

年中無休で店を切り盛りしながら、私を含め六人の子供を育てることがどれだけ大変だったか想像に難くないが、両親はとにかく一生懸命働いた。 在日の人も多く訪れ、韓国料理は郷土料理としても歓迎されたという。 千日前ではじめたわずか二十坪の店は、恵まれた立地条件と両親の頑張りで隣地を買い上げる力をつけるまで成長し、またたく間に三階建てとなった。

終戦後間もない日本にあって、長い間庶民が口にすることができなかった「肉を焼く匂い」があたりに立ち込める。それは人々を惹きつけるに十分なものではなかっただろうか。
昭和二十年、日本が終戦を迎えてからたった三年しかたっていない。精神的にも余裕がなく、物にも文化にも飢えていた時代。 しかし街は、夢を求める人々であふれていた。プロレスの力道山や売り出したばかりの美空ひばりも、この味を求めにやってきた。その中で私は、誰に言われることなく「両親のあとに続こう」と、ごく自然に心に決めたのである。
そこは「食道園」のはじまりの場所であると同時に、私自身のはじまりの場所でもあった。

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第二部 回想~出会い~

兄が二歳で亡くなり、兄弟で男は私ひとり。両親の熱心な仕事ぶりや、そういった事情を考えるといずれ自分が楽をさせてやらなければと思っていた。
しかし、私が関西学院大学商学部を卒業し実際店に出る二十二歳まで両親は子供たちの誰にも手伝えとは言わず、その点は本当に自由にさせてもらったと思っている。

日本の焼肉店の元祖といってもよい「食道園」が生まれた経緯は、父と母が激動の時代を生きてきた歴史をたどることと等しい。
今のかたちに至るまで一体どのような道のりがあったのか。その様子を母の著書「長い旅」から垣間見ることができる。昭和初期の東京。
ふたりがまだお互いの存在を知る前、父は個人営業のタクシードライバー、母は家計を支えるためにタイピストへの道を歩みはじめたところだった。
タクシードライバーとタイピスト。車という存在そのものが貴重であり、横文字の職業もまた同じようにめずらしかった昭和初期という時代背景を考えると、この職種は特異なものといえるのだろう。
接点のないふたりは後に、映画のワンシーンのような出会いをする。母がタイプ会社への出勤途中に突然の雨。そこに一台のタクシーが止まる。
ずぶぬれになっていた母は、「運賃はいらないから」と言われ、思いがけないところで救われることとなった。
このことがきっかけでふたりは頻繁に会うようになり、その距離を縮めていった。

誰しもが経験する言葉にできない胸の高鳴り、恋のはじまり。それはどういう時代であれ変わることはない。
ダンスホール、ネオンライト、または街のざわめきさえも…。そのすべてが自分たちを祝福していてくれるような感覚に、ふたりは満たされていった。

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第三部 大陸を越えて

昭和十三年。父は紆余曲折を経て、中国の太原で精肉店を始めることとなった。「軍御用達・太原精肉」の看板が掲げられたのは、その年の八月。これがのちに日本の焼肉界をリードする「食道園」の前身となるのである。
すき焼きを「松喜」、平壌冷麺を「食道園」と名付けたこの店は、またたくまに支店を二軒持つほどまでに成長する。
軍人たちでごったがえす店を母が切り盛りし、父は北中国一帯へ意欲的に仕入れに出掛けた。
商売が軌道に乗りはじめ店が多忙を極める中、翌年には三人目の女の子が誕生。その二年後の昭和十六年四月十六日に私が生まれた。

順調に伸びていた商売だが七年目にその幕を閉じることになる。昭和二十年、日本の終戦。
敗戦と同時に引揚者として帰国した家族は、焼け野原と化した東京で新たな出発を強いられることになった。
引揚寮、知人宅での居候生活を経て、一軒家に落ち着いたのは昭和二十二年。貯えた全財産をはたき、廃材を利用して建てた粗末な家だが、家族は水入らずの生活を手に入れたのだ。
しかし落ち着いたのもつかの間、今度は父が大阪ミナミの歌舞伎座の前で、突然一軒の食堂を始めたのである。

父の商売はあたった。食堂そのものが少なかったこともあるが、それ以上に「焼肉と冷麺の店」は当時としては目新しく、面白いほどに客を集めた。
しかし、この繁盛は単なる幸運だけの産物ではない。その時、三十七歳と三十四歳になっていた両親は年中無休、睡眠三時間という過酷な労働に耐え、現在の商売の基盤を作ってきたからである。

開店から二年後に個人営業から株式会社へと規模を拡大した「食道園」が、隣地を買い上げていくのに時間はかからなかった。
その後、千日前の百坪の土地に、当時まだめずらしかった三階建ての店がそびえたつことになる。私がはじめて店に出た時には、すでに社員数は百名を超えていた。

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第四部 成功の影に

父が開店から客の心をつかんだ理由は他にもある。当時貴重品だった肉類を肉屋から枝肉のまま仕入れたり、焼く木炭も何俵もまとめて購入するなどの積極的な取り引きを行ったことだ。
枝肉とは、内臓、頭、肢端を取り除いた骨付きの肉のことである。また、大陸からの引揚者たちに喜んでもらうために、キムチは本場の味を守った。
現在でも「食道園」の人気メニューである「マンドク」。餃子を入れたそのスープは、どうすればお客様に満足してもらえるか、試行錯誤した末に生まれたメニューである。
「おいしいものをお客様に食べてもらう」父は、その点に関してもたゆまない情熱を注ぎ込んでいた。

昭和二十一年に千日前ではじめた食堂。創業当時の店には「食道園」と「平壌冷麺」の二つの看板がかけられており、「平壌冷麺」の方が大書きされていた。
そこから父の「平壌冷麺」へのこだわりが見てとれる。故に本来サイドメニューであるはずの焼肉が、人から人へと評判を呼ぶようになったのは、父としては少し意外だったのかも知れない。
こうして「食道園」は焼肉の元祖として、世間に認知されいくようになるのである。一方、冷麺の方は父のこだわりが伝統として今なお残り、「食道園」のもう一つの名物として人気を博している。

創業当時から大胆な商いに取り組み、それを成功させてきた父。その姿勢は、傍らで見ていた私にもしっかりと受け継がれた。

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第五部 つなぐもの

昭和四十三年。「食道園」はあらたな転機を迎える。二年後に予定されていた万国博のための道路拡張により、店が立ち退きを余儀なくされたのだ。
その立ち退き料のすべてを注ぎ込み、すでに購入していた宗右衛門町の土地に敷地百三十坪、六階建ての豪華な店舗を建設した。カウンターテーブル、バーベキューコーナーを設けた一階。
四百人収容の大広間、高級感溢れる和風個室。店内に流れる心落ち着くBGMに、質の高いインテリア。
その発想は三十年経過した今も斬新であり、これまでの焼肉店の常識を覆すものであった。

当時、日本における焼肉文化の歴史はそれほど古くはなく、それまでは韓国の郷土料理として一部のファンに好まれてきただけであった。
それが急速に普及したきっかけのひとつが昭和四十五年の大阪万国博覧会である。韓国館の食堂部として出店の権利を得た「食道園」は全会場中、堂々の二位を記録した。
店舗の広さはわずか七十坪。ちなみに一位のソ連館は、五百坪であった。
韓国の郷土料理である焼肉を日本に広めるための絶好の機会をつかんだ「食道園」は、重労働と薄利を覚悟の上で五百円の「焼肉弁当」を売り出し、そしてそれは飛ぶように売れた。
その結果、万国博協会と韓国政府から、名誉ある表彰を受けることになる。

その後、この宗右衛門町の店を本店として「食道園」は多店舗化に成功。また、業界誌で「無煙ロースター」の存在を知るや否や、その性能の確かさに惚れ込みすぐさま導入した。
すこしでも焼肉業界を活性化することができるものを求め、父と私は必死だった。

現在、JY活動の拠点として「食道園」は日本の焼肉業界の先頭を走りつづける。しかし、どれだけその規模や活動が多岐にわたろうと、変わらない思い。
それは、「一人でも多くの人に、おいしくて元気の出る焼肉を、食べていただきたい」ということ。

その極めてシンプルで客本位の基本姿勢は、父と私が持つ共通認識であり、「信念」でもある。

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